『「死にたい」とつぶやく』を読みますた。<その2> 2023/02/03
※昨日に続いて、一素人による要約でもなんでもない覚書です。ありとあらゆる独断と偏見を含むことを、あらかじめご容赦ください。
自らの選択によって、他者が傷つくかどうかが左右されるときに、「私」は他者が傷つくことを避ける責任を負う――このような責任の原理にしたがうとしたら、「死にたい」という言動を見聞きした、それを発する近しい人物は、その人物に何らかの対処を行う責任を感じることになるだろう。*1
言いたいことも言えない日常の原因は、もちろんこんな世の中にあるのだけれど、それがすべてでもないようにも思われます。世の中が直接口を塞ぎに来ないかぎり、僕らは何でも言えるはずなのだから、ある意味でその沈黙は自らの選択でもあるからです。
「これを口にしてしまった途端、きっと何かが壊れてしまう」という予期。強制に至らぬ抑止力のほとんどは、まだ到来していない未来への想像力を媒介にして作動するのではないでしょうか。
それでは、「死にたい」という言葉は、どのような予期を伴って発せられる(あるいは発せられない)のか。冒頭の引用のように、本書ではその一つとして「責任」を挙げています*2。
おそらくここで重要なのは、「死にたい」を受け取った他者が「本当に」責任を感じているか、という視点ではありません。昨日の繰り返しになりますが、そんなことは、第三者にはわからない。だからこそ、「死にたい」を<リテラル>に捉えてみる。「死にたい」という4文字を発話者と聞き手の背景から自律させ、それ自体が持つ魔力を捕まえてみる。
当たり前ですが、「死にたい」のであれば、まだ死んでない(死ねない)。つまりこの言葉によって、聞き手は(自死を防ぐ)行為の余地を「必ず」与えられるのです。余地のあるとこに選択があり、選択のあるところに責任がある。それは聞き手に対して、絶対的に自責の念を背負わせる発話です。
……ということを「予期」したとき、果たして僕は「死にたい」と言えるだろうか。僕の「死にたい」を聞いてくれるのは、僕にとってかけがえのない人でしょう。しかし、かけがえのないあなたに、僕の重荷を背負わせたくないというのもまた真です。
こうした袋小路で、僕らの「死にたい」は抑圧されているのではないか。その息苦しさに耐えかねて、時折電子の海に浮かびあがてくる「死にたい」を、僕らは日々目撃しているのではないか*3。
今日はここまでにします。「孤独だから死にたい」だけではなく、「死にたいから孤独になる」こともあるのかもしれないという本書の指摘は、なんだか腑に落ちるところがありました。どこから来たかもわからない言葉に振り回される、という経験は私にも覚えがあります(「死にたい」ではないですが)。それがゆえに、言葉が私をいい方向に振り回してくれることがあることもまた、信じているのです。言いたいことも言えないこんな世の中で。