たまり醤油の水溜り

つらつらたらたら書きます。

『「死にたい」とつぶやく』を読みますた。<その1> 2023/02/02

※一素人による備忘録にも似た、ただの読書感想文です。ありとあらゆる誤読と誤解を含むことを、あらかじめご容赦ください。

 

amzn.asia

 

さて、以上を踏まえてもらったうえで、筆者が提案したいのは、「死にたい」を<リテラル>に捉えることである。ここでいう<リテラル>とは、「字義どおり」や「文字どおり」という意味である。すなわち、親密な他者が「死にたい」と言動する、まさにそのときに、彼/彼女は「死にたい」とみなすのだ。*1

 

 終章で語られる上記の提案に、一体どれほどの有効性があるのか。何らかの対処を迫る「死にたい」を投げかけられた経験がない僕には(そして「死にたい」とつぶやいたことのない僕には)、正直のところよくわかりません。

 それでもここを読んだとき、僕は著者さんのことがちょっと好きになりました。「「死にたい」を<リテラル>に捉える」という提案を誰よりも実践しようとしていたのは、この本の「書き手」自身であったように思えたからです。

 

 本書では一貫して、「死にたい」を所与として扱っています。つまり、その背景として考えられる要素(経済的困窮や精神的疾患など)に思いを巡らすことは、意識的に「禁欲」されている。なぜなら、「どうして死にたいの?」と尋ねるとき、「(本当は生きたいのに)●●が邪魔をするから、死にたい」という答えを、僕らは否応なく期待してしまうからです。それは、「「生きたい」を前提としない他者」を前にしては、無力な問いの形式ではないのか*2

 

 いや、「生きたい」を前提としない他者が「本当に」いるのかどうか、それすらも僕らにはわからないのかもしれません。でも、事実として、大量の「死にたい」は今日も電子の海に浮かんでは沈んでいる。ならば、この「死にたい」を字義通り受け止めたとき、一体なにが起こるか(もしくは起こったか)を考え抜いてみよう。

 

 僕は本書の基本スタンスを、こういう風に理解しました。そして、「死にたい」とみなすという「禁欲」は、最初から最後まで大切に守られていたように思います。難しいことはわかりませんが、僕はそこが好きになったのです。

 

 あらま。はじめてブログを書くので、今日はあっという間に力尽きました。あとは細かいメモが続きますが、続きはまた明日。

 

*1:『「死にたい」とつぶやく』p.285より引用

*2:もちろんですが、「死にたい」の背景を追究することの意義も、本書では最大限尊重されています。その上で、「この本ではそういうスタイルをとらないよ」ということです。