たまり醤油の水溜り

つらつらたらたら書きます。

このブログについて(初心表明)

 三十路を目の前にして「而立」という言葉が出てこないくらい、ぼくは今まで何も積み上げてきませんでした。そうです、恥ずかしくも「孔子 30歳」でせこせこと検索したんですよ、ぼくは。

 

 父は草木に詳しい人で、一緒に街を歩いていると、これが「ナントカ草」だとか「ホニャラナ花」だとか教えてくれたものです。決まってぼくは「人間が勝手につけた符丁になんの意味があるんだ」と、気にも留めなかった。「意味あるんだよばかぁ! どっかから聞きかじった「無知の知」なんて言葉で、自分の世界の狭さをごまかさないでくれ。というかたぶん、意味間違ってるぞそれ」と叫ばずにいられないのが、今のぼくの惨状です。

 

 ということで、あまりにも遅すぎることを悔いながらも、ちゃんといろいろと始めてみようという気になったので、学んだことをこのブログに書きとめていこうと思ったわけです。不惑のころにはもっとしっかりとした文章が書けるようになることを目指して、見苦しくも日々もがいてみます。はい。

 

 基本的には、読んだ本のメモや、新しく挑戦してみたことを書き連ねていくことになりそうですが、その基本方針を書き留めておきます。途中で増えるかもしれません。

 

■批判をしない

 そういうことは偉い先生や頭のいい人がやってくれる。お前(ぼく)はとにかく、面白いと感じたことや、新しい発見を抱きしめれば、ええんやで。

 

■知らない単語は辞書を引く

 アナァキな世界は少しずつ埋めていく。引いた単語の上にはチェックマークを付けて、昨日より一歩進んだ自分を演出しましょう。やらんよりはまし。

 

■車輪はいっぱい再発明する(四角も可)

 自分の頭で考えて、手を動かして、言葉にすることがだいじ。「お前それ、●●さんが同じこと言ってたで」と言われたら、憂いを帯びた微笑みでもって返しましょう。

 

『作りながら覚える 3日で作曲入門』を読みますた

 

amzn.asia

 

 ほんとに3日で読了。すごい。

 私は「音楽なにもわからないマン」なのですが、それゆえに知らないことばかりでめちゃくちゃ面白かったです。「こ、これがコード進行ってやつかぁ!」となりました。

 

・<つくってみたもの➀>戦闘曲っぽいやつ

 

・<つくってみたもの②>雪国っぽいやつ

 

 手を動かせばとりあえずそれっぽいものができる(楽しい!)、というのは最初の1冊目にぴったりですね。音楽理論が少し分かれば、「聴き方」が豊かになりそうな気がしたので、他の本でももう少し勉強してみようかなと思いました。

 

 

 

 

 

『「死にたい」とつぶやく』を読みますた。<その2> 2023/02/03

※昨日に続いて、一素人による要約でもなんでもない覚書です。ありとあらゆる独断と偏見を含むことを、あらかじめご容赦ください。

 

自らの選択によって、他者が傷つくかどうかが左右されるときに、「私」は他者が傷つくことを避ける責任を負う――このような責任の原理にしたがうとしたら、「死にたい」という言動を見聞きした、それを発する近しい人物は、その人物に何らかの対処を行う責任を感じることになるだろう。*1

 

 言いたいことも言えない日常の原因は、もちろんこんな世の中にあるのだけれど、それがすべてでもないようにも思われます。世の中が直接口を塞ぎに来ないかぎり、僕らは何でも言えるはずなのだから、ある意味でその沈黙は自らの選択でもあるからです。    

 「これを口にしてしまった途端、きっと何かが壊れてしまう」という予期。強制に至らぬ抑止力のほとんどは、まだ到来していない未来への想像力を媒介にして作動するのではないでしょうか。

 

 それでは、「死にたい」という言葉は、どのような予期を伴って発せられる(あるいは発せられない)のか。冒頭の引用のように、本書ではその一つとして「責任」を挙げています*2

 おそらくここで重要なのは、「死にたい」を受け取った他者が「本当に」責任を感じているか、という視点ではありません。昨日の繰り返しになりますが、そんなことは、第三者にはわからない。だからこそ、「死にたい」を<リテラル>に捉えてみる。「死にたい」という4文字を発話者と聞き手の背景から自律させ、それ自体が持つ魔力を捕まえてみる。

 

 当たり前ですが、「死にたい」のであれば、まだ死んでない(死ねない)。つまりこの言葉によって、聞き手は(自死を防ぐ)行為の余地を「必ず」与えられるのです。余地のあるとこに選択があり、選択のあるところに責任がある。それは聞き手に対して、絶対的に自責の念を背負わせる発話です。

 ……ということを「予期」したとき、果たして僕は「死にたい」と言えるだろうか。僕の「死にたい」を聞いてくれるのは、僕にとってかけがえのない人でしょう。しかし、かけがえのないあなたに、僕の重荷を背負わせたくないというのもまた真です。

 こうした袋小路で、僕らの「死にたい」は抑圧されているのではないか。その息苦しさに耐えかねて、時折電子の海に浮かびあがてくる「死にたい」を、僕らは日々目撃しているのではないか*3

 

 今日はここまでにします。「孤独だから死にたい」だけではなく、「死にたいから孤独になる」こともあるのかもしれないという本書の指摘は、なんだか腑に落ちるところがありました。どこから来たかもわからない言葉に振り回される、という経験は私にも覚えがあります(「死にたい」ではないですが)。それがゆえに、言葉が私をいい方向に振り回してくれることがあることもまた、信じているのです。言いたいことも言えないこんな世の中で。

*1:『「死にたい」とつぶやく』p.92より引用。

*2:本書で紹介されているのはそれだけではないのですが、このブログの主旨は要約ではなくて感想文なので、ここでは触れません。

*3:本書のテーマとして取り上げられている「事件」は、こういった「予期」の仕組みが生みだした脆弱性を悪用された側面がある、というのが第一章の主旨なのかなと理解しました。ただ、この事件について語る覚悟も権利も僕にはないので、興味がある方はぜひ原典をご参照ください。

『「死にたい」とつぶやく』を読みますた。<その1> 2023/02/02

※一素人による備忘録にも似た、ただの読書感想文です。ありとあらゆる誤読と誤解を含むことを、あらかじめご容赦ください。

 

amzn.asia

 

さて、以上を踏まえてもらったうえで、筆者が提案したいのは、「死にたい」を<リテラル>に捉えることである。ここでいう<リテラル>とは、「字義どおり」や「文字どおり」という意味である。すなわち、親密な他者が「死にたい」と言動する、まさにそのときに、彼/彼女は「死にたい」とみなすのだ。*1

 

 終章で語られる上記の提案に、一体どれほどの有効性があるのか。何らかの対処を迫る「死にたい」を投げかけられた経験がない僕には(そして「死にたい」とつぶやいたことのない僕には)、正直のところよくわかりません。

 それでもここを読んだとき、僕は著者さんのことがちょっと好きになりました。「「死にたい」を<リテラル>に捉える」という提案を誰よりも実践しようとしていたのは、この本の「書き手」自身であったように思えたからです。

 

 本書では一貫して、「死にたい」を所与として扱っています。つまり、その背景として考えられる要素(経済的困窮や精神的疾患など)に思いを巡らすことは、意識的に「禁欲」されている。なぜなら、「どうして死にたいの?」と尋ねるとき、「(本当は生きたいのに)●●が邪魔をするから、死にたい」という答えを、僕らは否応なく期待してしまうからです。それは、「「生きたい」を前提としない他者」を前にしては、無力な問いの形式ではないのか*2

 

 いや、「生きたい」を前提としない他者が「本当に」いるのかどうか、それすらも僕らにはわからないのかもしれません。でも、事実として、大量の「死にたい」は今日も電子の海に浮かんでは沈んでいる。ならば、この「死にたい」を字義通り受け止めたとき、一体なにが起こるか(もしくは起こったか)を考え抜いてみよう。

 

 僕は本書の基本スタンスを、こういう風に理解しました。そして、「死にたい」とみなすという「禁欲」は、最初から最後まで大切に守られていたように思います。難しいことはわかりませんが、僕はそこが好きになったのです。

 

 あらま。はじめてブログを書くので、今日はあっという間に力尽きました。あとは細かいメモが続きますが、続きはまた明日。

 

*1:『「死にたい」とつぶやく』p.285より引用

*2:もちろんですが、「死にたい」の背景を追究することの意義も、本書では最大限尊重されています。その上で、「この本ではそういうスタイルをとらないよ」ということです。